恥ずかしながらもお言葉にさせていただきます
- 凜 志水
- 4月30日
- 読了時間: 4分
部屋の片付けをしていて、数年前に使っていた手帳が出てきた。書きたい時にだけ書くきまぐれな日記。久しぶりに読み返してみると、案の定、小っ恥ずかしさで顔が歪む。自分の文章を読み返す時はいつもそうだ。結構時間が経っていると、なおさら。中でも特にひどかったのは、「他の人は案外物事を考えていないし、自分は考えている方だ」というような一文で、うわあ、自分、キメェ!と引き攣り笑いが止まらない。さぶいぼが立つレベル。
しかし思い返せば、確かに強くそう思っている時期があった。周囲を見渡し、なんでみんなもっと考えないんだろう、と真剣に考えていた。そして、その中でも自分は頭を使っているからまだマシだ、という小さな小さなマウントみたいなことで自尊心を保とうとしていたのだ。みんなもうちょっと頭使おうよ、とか、少し考えてみたらわかることなのになぜそうしない?という言説は巷に溢れかえっていて、生きていれば周りに対してそう思うことも確かにある。
けれど、今の自分ならそんなことよう言わんわ、という感じ。実際、考えたり悩んだりできるのは時間と頭の容量に余裕のある人で、自らの生命を維持するのに一杯いっぱいの人や、何か一つのことに集中するあまり他のことを考える暇がない人が世の大半なんじゃないかと思う。さらに言えば、人が考えるタイミングというのはまちまちで、昨日まで何も考えてなかった人でも何らかのきっかけで急に思慮深い傾向になることだってある。さらにさらに言えば、自分の考えを他者に伝えたり発信することが得意な人と、そうじゃない人がいる。別に誰にも何にも発信していないけれど、頭の中で考えを捏ねている人はめちゃくちゃ多いはず。可視化されていない考えなんて山のようにあるのに、若き頃の私は自分の目の前にやってきたものこそが「周囲の考え」と思っていたようだ。甘い、あまい!
かく言う私はご覧の通り、普段考えていることなどを文字にすることが大好きで、なんなら自分でもちょっと引くレベルでさえある(夜中に突然呟きたいことを思いついて、いてもたってもいられなくなったりするヨ...)。よくよく考えてみれば、文章を書くこと自体、基本的にはかなり恥ずかしい行為だ。筆者は姿こそ見せずとも、文章にはその人となりがどうしても「乗る」し、裸を見せるようにばばーん!と頭の中を開示しちゃってるんだから。しかし、人前に出て自分の身体を晒すことにさほど抵抗を感じない人がいるように、文章で自分を公に表現することにそれなりの耐性が備わっている人もいる。私自身はどちらかと言えば後者であると同時に、後者のような人が世の中にたくさんいれば嬉しいと思う。経験上、他の人が書いたものを読んで救われたことが何回もあるし、人が考えていることを知るのは、やっぱり楽しいから。
人の考えには様々な軸があると思うようになってからは、「より質の高い考え方」とか「ちゃんと考えていて偉い」みたいな発想は無くなった。20代と40代、80代など世代間で考えることが違うのも当然だし、性別の違いや環境の違いもあり、みんなそれぞれの軸を持って動いている。だから、いろんなフィールドにいるそれぞれの人の考えが有機的に「在る」ということそれ自体が、望ましい気がしている(学問の世界は普遍性が大きな基準の一つなので、なかなかそうはいかないけどね)。ゆえに昨今の、自分の考えはあるしそれを発信したいけど炎上をあまりに避けようとするがゆえに「何も言わない方が安全だし気楽〜」という風潮、他者から間違いを指摘されるくらいなら多くを語らない方がかっこいいしイケてる、みたいな風潮が誕生してしまったのは、少し寂しい。ダサくても、間違っていても、いいじゃないか。全ての文字はある意味「等価」だし、今このタイミングだからこそ他者に刺さるということだって十分あり得る。だからみんなも気分が乗ってきたら、自分の考え言ってこや〜。わたくしも、その時に考えていることを、恥ずかしながらもお言葉にさせていただきたいと思っております。
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