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お母さんヒス構文の裏側

  • 執筆者の写真: 凜 志水
    凜 志水
  • 10月31日
  • 読了時間: 3分


少し前に流行った「お母さんヒス構文」。ラランドのYoutubeで観て以来、内容はともかくそれをフォーマットとして打ち出せるという事実に驚いた。あらゆるお母さんに共通の仕草や振る舞いがある、ということは多少理解できるが、お母さんヒス構文で共有されているのは、話し方と思考の癖である。言葉使いとか考え方の癖ってかなり個人差があるはずなのに、みんなのあるあるネタになるということは、そこに何かしらの社会的な構造が潜んでいるんだろう。



ここでいう「ヒス」はおそらく、個人が持つネガティブな性質よりも、多くのお母さんが共有している何かしらの我慢、羨望、そして諦めに由来している。出産したことで私自身も母という立場になり(といいつつも実感はまだ全然ない。周囲から「お母さん」と呼ばれてラベルをぺたぺた貼られている感覚に近い)、自由に使える時間がかなり減ったのは事実だ。以前だったら冷めたご飯を食べるのが死ぬほど嫌いだったが、今はそんなこと言ってられない。温め直している間に寝ている子が起きたら、ご飯にありつけなくなってしまう。しかしこんな我慢はきっと序の口で、ヒス構文の使い手たちはもっと深い部分で我慢を強いられてきたのだと思う。




今放送中のドラマ「小さい頃は、神様がいて」の中で、主人公(仲間由紀恵)が妊娠をきっかけに会社を辞めるシーンがある。周囲に祝福されながらも、彼女は自分のデスクに貼ってあった「自分らしく」と書かれたメモをゴミ箱に捨て専業主婦となり、出産後は育児ノイローゼのような状況に陥ってしまう。きっとこれがお母さんヒス構文の核なんじゃないか。自分らしさを捨てて家庭に全力を注ぐ(それはひと昔前なら美徳とすらされていただろう)ことで、私はこれだけ我慢して頑張っているんだから、という発想が生まれ、それが家庭内で報われない時に何かが歪む。はいはい、どうせお母さんが全部我慢すればいいんでしょ、という具合に。




ヒス構文はある種ネタとして使われているので、ここまで深刻に捉える必要はないのかもしれないが、お母さんの「我慢」はしばしば負の連鎖を生んでおり、この点については結構ちゃんと考えなくちゃいけないと思っている。例えば、分娩方法について、無痛分娩にしようとしても母親に止められたりすることが未だに横行しているらしい。私自身は親にうるさく言われなかったものの、帝王切開の傷口の痛みでもがく私を目の前に祖母は(私を労りつつも)「一番楽なお産やったなぁ」と言い放った。もちろん声にはしないが、その裏には「私の時のお産はもっと大変だった」が込められている。その時、自分は辛い思いをしたのに若い世代が楽をしているのがなんとなく気に触る、と考える人は案外多いのだと知った。




たぶんこの先、あと何回かはこうした我慢の連鎖に巻き込もうとするムーブを周囲にかまされる気がしているが、そういうのはもう私たちの世代で絶滅させなくちゃあならない。分娩の痛みに無理やり耐えたり、育児のために自分自身を押し殺すような忍耐を美しいとすることはナンセンスだし、お母さんになるその人が活き活きと過ごせるならば、よかったじゃん!最高〜〜!と言ってあげられる余裕を持ちたい。そしてその余裕を持つために、私たちは自分の生き様で、この連鎖をブチ破っていかねばならないのである。

 
 
 

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