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2025年に『ヘルタースケルター』を読む

  • 執筆者の写真: 凜 志水
    凜 志水
  • 7月17日
  • 読了時間: 5分

『PINK』に出会ってからというものの、岡崎京子作品を古本で手に入れては少しずつ読み進めている。どれも面白い。自分は漫画には疎い方なのだけれど、好きな作家が増えて嬉しい、うれしい。



今日は、映画化もされた有名作『ヘルタースケルター』を読んだ。

『PINK』や『リバーズ・エッジ』と比べると心身を蝕むショッキングさが強めだったためか、読後はぐったり疲れた。心温まる作品の時は、この余韻をもう少し味わいたい!とか思って他の文字情報をなるべく入れないようにしたりするけれど、今回は立て続けに映画の方も観てしまったせいか、この後味から早く逃れたくて仕方なくなって、すぐにネットにある書評を読んだりした。



この漫画が連載されていたのが1995年から96年で、映画化されたのが2012年だから、作品自体が世に出て30年くらい経つ。おそらく当時よりも技術が発達したことで当たり前に誰でも整形ができるようになった今日、これを読んでいるとなかなか笑えないところがある。ネットに上がっている感想を読むと、主人公りりこの「美に対する異様なまでの欲望や執着」という点に着目されていて、監督の蜷川氏のインタビューでも「もっと美しくなりたい、と思うこと自体の美しさ」ということが語られていた。これらを読みながら、うおぉ、この内容が記事になるとは流石10年前だな、と思ったのだけれど、当時はまだこの話のフィクション味が強かったのかもしれない。




ここからは私の読書感想文になるが、りりこは美に対してそこまで欲望を持っているようには見えなかった。彼女は、ママと呼ばれている社長や、世間一般の女性たちの理想を受け止めているだけの器で、美それ自体に満足感は得ていないように思われる(そこが事務所の後輩であるこずえと決定的に違う点かもしれない。こずえはある程度自分に満足している節があり、だから自分が他人から飽きられ忘れられることに恐怖を抱いていない)。

りりこは「強い女性」「自分のことは自分で決める女性」であると多くの読者は受け取っていて、私もそう思う。そしてその強い部分というのは、自分の欲望のままに生きるということではなく、自分が器であることをわかった上で器としての生を全うしてやる、ズタボロでもやってやらぁ!という「気概」にあるんじゃないだろうか。




りりこは自分の器としての虚しさをよくわかっているし、その虚しさと世間からの賞賛の声との間に挟まれて精神が蝕まれていく。表面的なところだけ読むと、美に執着した挙句その美しさを維持するために大量の薬を飲み、心身ともに崩壊していくという流れなんだけど。しかしもっと社会的な視点で、かつ現代的な文脈から読めば、常に美しくあることを求められる女性が抱える心理的負担や、無責任な大衆に翻弄される主人公の姿が見えてくる。周囲からの賞賛と自分の本当の満足との乖離なんかは、まさにSNS時代のいま、誰でも直面している現象の一つだろうから、若い世代にも刺さるんじゃないかしら。




強い女性と美しさ、というので最近ふと考えたことは、女性K-POPアイドルとその歌の歌詞について。最近のアイドルソングは10年前よりも自分に対して自信満々な歌詞が増えた気がする。MVの字幕とかを見ていると、私のことは私で決める、私の良さがわからないやつはあっち行って!というような強くて自立した人物像をよく描いていて、それがファンへの応援ソングとして受容されているのだろう。確かに、聴いていれば自分の好きなアイドルに背中を押されている気持ちになるかもしれないが、ちょっと引っかかるのは彼女たちの大半がめちゃくちゃ細くて顔が整っていて、現代の「美」を備えているという点だ。

この溢れる自信は彼女たちがもつ「美」からくるものだ、と思うがゆえに、私ももっと細くて綺麗になって自信を持ちたい!という発想になるファンは少なからずいるだろう。




ここで、りりことその妹との会話を思い出す。りりこは妹(漫画の中では醜いとされている)に、目元を二重にしたら?と提案し、妹は「私はお姉ちゃんみたいに強くないから」と言う。それに対してりりこは「綺麗になるから強くなれるのよ」と返す。

この時の「強さ」って、一体何なんだろうか。きっと、世の中を渡っていく時に備えることのできる、時には権力にすら対峙できる強さのことなんだろうけれど、こういうところに女性やまだ権力のない青少年(BANANA FISHのアッシュとか)の社会的地位の歴史が見え隠れしている、と私はどうしても思ってしまう。愛でる対象としての、美しいモノとしての人。それを所有したがる権力者。そういう社会構造的背景を無視した、「女性は潜在的に美しさを求めるものだ」みたいな言説はちょっといただけない(なんなら美に執着しているのはむしろそうした権力者の方だろうに...ちなみにこのあたりの話は柚木麻子の『BUTTER』でもかなり指摘されていることだ)。私は美学の専門でもなんでもないけれど、美の社会における振る舞い方については、これからもう少し考えてみたいと思う。権力に従える美、というのは考えやすいが、一方で「美の暴力」といった言葉があるように、「美」それ自体にもなんらかの権力性みたいなものがあるとする考え方もあるだろう(実際、それに慄いたのがりりこのマネージャーである羽田だったし)。



岡崎京子の描く主人公たちは、社会の中で揉まれながら必死に生きる。一方では自分のことを可愛がりながら、しかし他方でどうしようもないやるせなさや無力感に挟み込まれ、そういう自分を振り返り、まるで自分のことじゃないかのように冷たい目で内省する。この複雑で重層的な描写にこそ、「女は馬鹿じゃない」という強いメッセージが刻まれていて、私はそれにとても励まされているのだと思う。



 
 
 

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