家事にそこまで求めてねーよ論争
- 凜 志水
- 6月27日
- 読了時間: 4分
少し前に最終話を迎えた「対岸の家事」というドラマを観終えた。
今となっては逆にマイノリティーになってしまった専業主婦である主人公が、育児や家事、身近な人々が抱える様々な家庭の問題に直面していくという内容で、なかなか面白かった。家族模様が描かれる作品はこれまで多くあったけれど、家事や育児に切り込む作品は時代と共に世間に受け入れられるようになってきたのかなと思う。
「個人的なことは政治的なこと」とはよく聞くが、家事や育児も政治的な事柄=公の問題として関心を寄せられるようになってきているのだろう。
私がこの手のことに興味があるのは、大学院での研究対象であるハンナ・アーレントが公/私の間の区分について分析した理論家であることに関係している。アーレントは公的な空間(公に人々が集まる場所)での営みと、私的な空間(主に家庭)での営みをかなり明確に区分した。公的/私的事柄の具体的内容は時代によって変化すると主張しながらも、明らかに公的な空間における営みの方を重要視している(ように見えてしまう)ので、70年代のフェミニストたちからは大ブーイングを受けたことでも有名。アーレントのように明確な領域区分を設けてしまうと、例えばDVの問題は公的な事柄ではなく、私的な事柄、つまり家庭内で解決すべき問題であるとして、公での議論の対象にすらならなくなってしまうという懸念があるのだ。
そうした歴代のフェミニストたちの批判が功を奏してか、最近の人文界隈では「ケア」についての議論が大変盛んである。家事や育児はもちろん、介護や精神的なサポートを含め、誰かを世話して支えるということ、そしてそれを担う人々の状況について様々な政治的議論が公でなされている。こうした現状を見ると、もうアーレントの公/私についての議論などあまりに古臭くて話にならないと思われそうで、研究している身としては冷や汗がでなくもない。というか、現にダラダラとでている。
けれども、アーレントが言おうとしていたことは完全に現代には通用しないとも思わない。
この間某SNSで大いに盛り上がっていた話題で、「家事にそこまで求めてねーよ論争」(命名は筆者による)がある。全部を追っていたわけではないので発端はわからないが、まあいつもの男女対立の流れだろう。要するに、「家事ってそこまでやらなくていいのにわざわざ時間と暇かけて忙しいと嘆いている女ども意味わからん」という男性側vs 「あんたがそこまでといっている家事をお金に換算するととんでもない額になるくらいのことこっちはやってんだよ、子育てでも同じこと言ってみろ(怒)」という女性側のやりとり。
これを目にした時、「あまりにも不毛だ...」と思ってしまった。SNSでもうお馴染み、主語デカスギ問題はさることながら、家事の「程度」をさも大切な議論かのように展開させていく様子に違和感を覚えたのだった。家事をどれくらいやり込むかというのはそれこそ千差万別であって、その家庭内それぞれのやり方がある。潔癖の人がいれば怠惰な人もいるし、こうやって生活しなければならないなんていうルールはないはずだ。生きて生活をしていくということを円滑に進めるために、誰かと住んでいるとすればやり方を話し合って折り合いをつけ、役割を決めるなら決めて互いの勤めを労り、協力してやっていくということ以外にはそこには何もないように思うのだが...。だから、上の対話(というかいがみ合い)は生活において直視しなければならないもの以外のことに、あまりにも引っ張られすぎている。男側も女側も、誰に向かって言い放っているのかがよくわからない。そこには誰もいなくて、ただ言葉と普段の鬱憤だけが燃料になってごうごうと燃えているように見える。
アーレントは、世論や大衆の意見といったものにかなり警戒心を示していた。そこがエリート主義として批判される点でもあるのだけれども、上記のような事態を目にすると、アーレントが批判したいのってまさにこういう状況なんだろうと思う。公的な議論というのは感情のぶつけ合いではなくて、皆に共通するある問題があって、それについて意見を交わすことである。すべての言葉のやり取りが公的な議論になるわけではない。そこにはちゃんとした段階が必要である。上のやりとりだって、例えば「家事時間と労働時間との関係」や「家事に対する社会的責任感やその重圧」といったテーマに集約することができれば、中身のある議論になるだろう。対立だけじゃ議論にはならなくて、共通するポイントをしっかり共有したうえで話が展開されないと、やはりただの口喧嘩に止まってしまう。多くのSNSユーザーはこのことに気づいているだろうけれど、この手の「議論風口喧嘩」はなかなか無くなってくれない。一体どうしたものか...。
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