学内ですれ違った君に捧ぐ
- 凜 志水
- 2024年9月19日
- 読了時間: 4分
今日は大学の中庭で、反戦デモが行われていた。
パレスチナで起こっている虐殺に対して声を上げる人を見て、君は友人と仲良く歩きながら、
「俺たちがなんか言ったって意味なくね?なんも変わらんやろ」と呟いていた。
盗み聞きしたわけではなく、すれ違いざまに聞こえちゃったんだよね、ごめんね。
君の言っていることは、体感としてはものすごくわかる。
今起こっていることは遠い国の知らない人たちのことで、部外者が首を突っ込むことなんてできない。
自分達がいる国は、そんなに世界的に影響力のある発言をする力(もしくは能力)がない。
——うん、確かに。
それに、デモとかって勢いが強すぎてなんか怖いし、政治的なことを主張したら友達とか恋人や家族に引かれそう。
やっても結果がでないことを必死にやるのって、なんかダサい。
——そうだね、私も以前は同じようなことを思ってたよ。
こちとら中学生の頃、社会の授業中に「どうせ戦争は起こってしまうものだ」とかいう発言をして、教室の空気を凍らせたことさえある。
その時はさすがにまずいことを言ったかな、と思いつつ、それでも自分はこれだけ現実的な思考ができるんだ、という優位に立ちたいと思ってた。(ガキだね。)
さらに、政治的なアクションに対してどことなく嫌悪感を抱いてしまうのも、正直わかる。
私も君と同じように、そういう運動からつい距離をとってしまうことがある。
(最近、メールでできる署名運動に参加してみたのだけど、一度署名したら別の運動にも参加しませんか?という類のメールがわんさかきて、本当に嫌な気分になった。)
それでも、君は戦争に賛成しているか、と聞かれたらどうだろう。
たぶん、戦争自体には反対なんじゃないかな。
「意味がない」って言ってるし、きっと意味があったら行動を起こせるタイプなんだと思うけど、どうだろう。
それはともかく、戦争には反対だけど、デモなどの政治的行動をやっても仕方ないと思っているとするならば、一つ伝えたいことがある。
そうしたデモや運動、政治的な発言は、君の思っているよりも無駄じゃない。
それは、そういう言葉や思想が人に残り続ける、という意味において、無駄じゃない。
もしかしたら、そもそも思想や言葉が消えるということがイメージしづらいかもしれないが、死語(もう使われなくなった言葉)があるということを踏まえればわかりやすいかもしれない。
動物や植物などと違って、言葉や思想は人間にしか扱うことができず、人間の使用や関心に100%依存している。
仮に、この世の中からカントの思想を知る研究者やカントに関する本が完全に消滅したら、カントの思想は完全に息絶えることになる。カントは生き返らないからね。
そうやって、言葉は人から人へ受け継がれることでしか生きることができなくて、
だから、考えていることや思っていることを声に出したり文字に書き起こすことは必要で、重要なことなんだと思う。
反戦デモの人たちが掲げる、「暴力反対、戦争をやめろ」という言葉も、
思想としてこの国、この大学内に生きていることがまずなによりも大事なこと。
それは政治的に抵抗できる唯一の手段でもあるし、デモや発言をすることは、嫌なことを嫌だ、と国や周囲の人々に対して発するための場であって、
そういう場を作っておくことは、もし自分が戦争に直接的に巻き込まれそうになったときに抵抗するための準備でもある。本当はそんな準備したくもないが、備えておくことが必要な場合もある。
ついでに言うと、「現状は変えられないから仕方ない、運動は意味がない」というのも立派な思想で、
今日のデモに対して発言した君のその言葉も、この大学内で生きて蔓延しているということになる。
自分は政治運動になにも関与していないと思っていたとしたら、君はそういう形で戦争の問題に知らずのうちに関わってしまっているということは、覚えておいてもいいかもしれない。
戦争に反対だと思っているのなら、絶対に政治的行動をおこなさないといけない、とは言わないし、言えない。
なぜなら、政治運動にどの程度関わるかについての自由はあるし、
実際には自分の目の前のことで精一杯で、政治的なことについて考える余裕がない人も多くいるだろうから。
それでもともかく、もし君が内心では戦争に反対しているとするなら、
デモや運動、発言をすることに対して冷ややかな目で見たり、馬鹿にするような発言をすることの責任について、一度考えてみてほしいと思う。
自分は政治的なことには関係がないという態度が、思ってもみない政治的帰結に関与してしまっている可能性について。
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