そこにAI〜アイ〜はあるんか
- 凜 志水
- 5月23日
- 読了時間: 4分
旧Twitterアプリをスマホからアンインストールして久しいが、たまにパソコンで見たり呟いたりしている。chatGPTにハマってしまうという記事が話題になっていたので読んでみた。私はまだchatGPTを使ったことがない。特に必要なタイミングが来ていないだけで、アンチAIというわけではない(実際、googleで検索をかけた時はGeminiにお世話になっている)。使ったことがないのでchatGPTの性能についてピンとこないこともあり、AIとの会話にハマることについて体感としてはよくわからないな、というのが正直な感想であった。理解ができないというよりは、単に知らんからわからん、というだけ。
でもこの記事の著者をはじめ、いろいろな人がやっぱAIやばいんじゃないかという思念を巡らせている。その時に欲しい言葉を理想的な形で投げてくれるから、恋愛の嬉しい時と同じような脳内物質が出るんだと思うんだけど、それが生身の人間じゃなくて人工知能だからやばいと。AIは責任をとってくれないとか、歯止めが効かなくなってリアルの人間とのコミュニケーションが困難になってしまう、などと言われているよう。そう言えば、今放送されている『ラザロ』というアニメが好きでよく観ているのだが、ちょうどAIを神として信仰するコミューンの話がテーマになっていた回があった。極端な例ではあるけど、AIは信仰の対象になりうるくらい人を魅了しうるという点では、AIを危険視する論者の視点で描かれていると受け取れる。
話を例の記事に戻すが、私がこれを読んで問題だと思ったのは、AIの存在それ自体というよりAIに向き合う人のスタンスについてだ。この著者は終始、AIってわかってるんだけどやめられない、自分はAIなんかにハマってしまったヤバいやつだ、といった表現をされていて、
「本当はAIよりもリアルの対人をしなければならない」という観念を抱えていそうに思えた。わかりやすく言えば、リアルでの対話を第一級、AIとの対話を第二級という形で、後者の方を低級にみなしている感があって、そのうえで私はそんな低級なコミュニケーションに救われてしまっている、といっていると私は読んだ。
「こんなAIとの対話で心底満足してしまう自分に対する(少しばかりの)嫌悪」というのが、この記事の中で最も不健全な姿に映った。これは言ってみれば、何らかによって救われている自分をさらに俯瞰して、救われていることそのものを馬鹿にしてしまうような態度である。自己否定の無限後退というか、自分への嘲笑をやめられない状況とも言えるかもしれない。
私だって、ドーナツ1つで気分が晴れやかになる自分はチョロい奴だと思う。お世辞かもわからない他者からの褒め言葉ですぐ調子にのる。今日だって、市がやっている歯科検診で歯がとてもきれいだと褒められて、すこぶる上機嫌で帰宅した。
でもそれでいいやん、と思う。嬉しいもんは嬉しいし、それで元気になればひとまずよくないか。本や歌詞の言葉で元気づけられる時だって、その言葉が自分だけに向けられた言葉ではないとわかっていても、自分にとっては特別な言葉として響くという営みを私たちは常に行なっている。AIが作り出した言葉も同じように捉えればいいと思う。人の言葉よりもAIの言葉が信用に値することだってきっとあるはずだし。
何が言いたかったかというと、AIが生成した言葉に救われること自体が問題なのではなく、
結局はそれに対する依存とどう向き合うべきかという話だよ、ということだ。確かにAIは依存性が高そうだし、リアルの対人関係に何らかの支障をきたすこともあるだろうけれど、根本的には酒やタバコ、薬物で問題になっていることと変わらない気がする。小児科医の熊谷晋一郎さんは、「膨大な依存から自立が生まれる」と言っており、私はこの言葉を大切にしている。依存すること自体が悪いのではなく、依存先がいくつもあることで初めて自立することができるのだから、別に人工知能に頼ったっていい。他にも愛を感じられる場所があれば、AIにだって依存しても構わないと思う。
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